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 終戦直後の昭和 21 年 3 月、東京の警視庁に 63 名の婦人警察官第一号が誕生しました。今回ご紹介する保浦房子さんは、そのうちのお一人です。保浦さんは、拝命から 停年 まで 37 年間を女性警察官として過ごされました。
 
 私は、青山高樹町に住んでおりましたので、実践は歩いて通学できましたし、両親からも下田歌子先生の学校ということで勧められました。でも 5 年間、勉強をしている時間はあまりありませんでした。高女に昭和 12 年に入学しましたが、皇居前広場で草むしりをしたり、時にはもっこを担いで芋ほりとか、勤労奉仕もありました。
 東西南北組に、中組があり、一学年 5 組で、毎年組替えがありましたね。昭和 17 年に高女を卒業して、その後事務の仕事をしていましたが、 3 月の東京大空襲で焼け出されました。
 昭和 20 年の年末に新聞広告で婦人警察官募集を見まして、父の勧めもあり、早速応募しました。募集の条件は、家から通える人でした。
 
 第一号ですから、しっかり育てなければいけないと、教官がたはさぞや大変であっただろうと思います。私たちが失敗したら、あとが続きませんからね。
「なんだ、女のくせに」という雰囲気がありました。男の妬みは致し方ないところでしょうが、女性用トイレがなくて、壁を仕切って女性専用を作っていただいたり、他にもいろいろ大変でした。ただ、外に出ると珍しがられて「写真を一緒に」と言われて、もてましたが。
 最初に配属されたのは交通部で、「 札 ( ふだ ) の 辻 ( つじ ) 」で交通整理の研修の時、自分の手信号次第で、この沢山の車や人を動かすというので、とても緊張したことを覚えています。捜査三課(窃盗係、すり係)に配属された時など、家に帰れないこともあ りました。
 
仕事を続けられたのは、健康だったことですが、家族の応援があったことも大きいですね。それと、主人の理解もありました。娘が二人おりますが、子供時代は主人の母や近所のおばさんに面倒を見ていただきました。 20 年勤務して表彰されて、その時もっとがんばれるかなと思いました。その後、停年まで勤めました。
 次女は私のあとを継ぎ、母・娘の女性警察官は初めてでした。
 あまりくよくよしない性格というか、何とかなるんじゃないっていうところがありますね。
警視庁の「自警書道」師範の免状を持っていまして、停年のとき「これからどうするのか」と上司に尋ねられて、自宅で子供たちを教えたいと申しました。警察学校の書道部でも教えてもらえないかと頼まれまして、以来警察学校や自宅など4箇所で現在も書道を教えています。
 健康の秘訣は、20年以上週2回はスポーツセンターに通い、アクアビクスやヨガをやっているお陰だと思います。
      
  正装の制服姿の保浦さん
              ※「 札 ( ふだ ) の 辻 ( つじ ) 」( 東京都港区  芝の地名)
                                  2006年10月1日刊「なよたけ情報版」掲載