千葉支部

野田・流山合同茶話会の感想

茶話会に参加された皆さまから感想をいただきました。ご紹介いたします。


野田・流山合同茶話会の催し

昭和18年専門家政卒 古谷秀子

平成15年11月16日実践桜会千葉県支部が千葉県在住の卒業生の御努力により発足致しました。第一回の千葉市での総会には私の寺の行事と重なり出席出来ませんでしたので其の後どのように進展しているのかしら? と思って居りました処、今年5月19日副支部長の東さんと芝田さんがお見えになり、6月の28日野田・流山合同の茶話会を野田の報恩寺で開きたいとのお申し出がございました。山の中の小さなお寺ですが場所をお使い頂くのは結構ですとお引き受け致しました。

野田市でも江戸川を越えればすぐ埼玉県という駅から遠い場所ですのでお見えになられても30人位の方だろうと思って居りました。当日は何のおもてなしも出来ませんがお茶を沸かして待って居りました処、野田・流山以外のご参加の方も多く、50人もの方がお集まり下さいました。

当日はお天気もよく国道16号線が大分こんでいたらしく、千葉からの方がおそくなりましたので、御挨拶のあと、最初に自己紹介から始まりました。出席なさる筈の昭和16年卒業の方が欠席でしたので、昭和18年卒業の私が年長と言う事で自己紹介を致しました。本当は最初に、フルートの演奏で実践の校歌を歌う予定だったそうでした。皆さんが続いて自己紹介をしている内におくれた方達もみえたので、フルートで懐かしい校歌を歌い、まるで学生時代に戻った様な気さえ致しました。皆さんの思い思いのお話を伺っているとあの頃の懐かしさがこみ上げて来て皆さんが親戚みたいに和んだ気分になりました。さすがに実践を卒業していてよかったなあと皆さんが横のつながりを確かめ合えたような気が致しました。

500円の会費の茶話会でしたが、こんなに有意義な会をもてた事は幹事さんのご努力の賜物と深く感謝致しました。又、野田にもこんなに実践卒業の方が大勢いらした事も今回この集まりで改めて知りました。支部長さんの閉会のご挨拶の後、庭に出て江戸川の土手でめいめいお写真をとったり、宮内庁に納めるお醤油を作っている御用蔵を背景に皆で記念撮影をしたりして楽しい一日に終わりを告げ又逢う日を楽しみに散会いたしました。

幹事さん方、本当にご苦労樣でした。


野田・流山合同茶話会に参加して

昭和38年短大英文卒 山口淑子

6月28日の午後、野田の報恩寺に実践桜会の面々が集いました。昨年11月の千葉支部誕生を機に県内を隈なく巡って、会の充実を計ろうとする第一回目の催しだったのです。会の趣旨も知らず母校実践のなつかしさのみで暢気に参加した私でしたが、50名もの出席者おひとりおひとりの実践時代の思い出話や近況を伺っているうちに40年以上前のあの懐かしいときの私に戻っていました。年代や学部等の違いはあっても実践の教育理念の下、同じ空気を吸った方々の温かさ・やさしさに触れた幸せなひとときでした。ある教授から「実践で学んだこと、実践で過ごした時は人生を豊かなものにしてくれるはずだから、有り難いことと感謝するように」との卒業の贐の言葉をいただいたのを思い出したりもしました。

フルートの演奏を聴き、校歌を斉唱した頃には、私には全員初対面であったにもかかわらず気心の知れた親戚に久しぶりに会ったようにリラックスしておりました。母娘・姉妹と同窓で、ご一緒に参加なさった方々もいらしたなか、私と同じ町内にお住いと知った先輩のほうから歩み寄ってお声をかけていただいたことは、三年前に母 (S16年頃専家卒) を亡くした私には優しい姉に再会できたようで、新しい出会いに大感激しています。

報恩寺の豊かな森と江戸川の畔にたたずむ御用蔵の傍を散策し、楽しくも有意義な午後のひとときは終わりました。このたびお世話をしてくださったみなさまに心より感謝申し上げます。早くも次回を楽しみにしております。

 


昭和23年被服科専門卒 戸邉 包

先日は、実践桜会千葉支部野田・流山茶話会に支部長出家様、他役員の皆様のお骨折りにより盛会に終了出来ました事あつく御礼申し上げます。50数名の方々とお会い出来なごやかな中に、母校の事、色々お話をうかがい皆様の御元気なお姿を拝見して、うれしく思いました。たださみしく残念に思いました事は、流山市の一番の親友だった旧姓根本敬子様 (眉山) が故人になられた事が、私にはとてもさみしく残念でした。

私の年代には隔世の感がありますが時代の波におくれない様、しっかり生きてまいりたいと思います。これからもこの会を続けていただく事を希望致します。今後ともよろいしくご指導くださいます様お願い致します。

● 旧姓根本敬子さん(眉山)の思い出を聞く

(聞き手 昭和48年食物卒 芝田エミ)

戸邊さんと根本敬子さんは、一番の親友で毎日馬橋で合流し日暮里で乗り換え、渋谷に通われたとのこと。当時の渋谷は一面焼け野原で、お店など一軒もなかったそうです。一部の教室も焼け、教室を移動する時は、自分の椅子を持って移動し講義を受けていました。当然、帰宅時もいつも一緒でした。戸邊さんは、卒業前に嫁がれることになり、日暮里のホームで常磐線を待ちながら手をつなぎ、「早春賦」を歌ったのが、学生時代の思い出と、昨日のことにように、話してくださいました。(根本さんとお会いしたのはこの時が最後だそうです)

青春時代の素敵な光景が目に浮かび、聞いている私も胸が熱くなりました。根本さんは、後に流山市長になられた眉山さんに嫁がれ、十数年前に残念ながら他界されたそうです。今でも、親友との思い出を大切に、宝物として人生を歩んでこられた大先輩の学生時代のお話は、人と人との出会いがいかにすばらしいかを再認識し、改めて千葉支部会の発足も意味あるものだと、実感しました。

 

野田の報恩寺の茶話会に出席して

昭和32年短大生活卒 林 佐恵子

同期の友人に誘われて出席する事にしたものの、友人とは電話連絡だけでここ何十年と会っていない為、お互い分かるだろうかと少々不安でしたが集合場所の集団の中に、懐かしい友の姿を一瞬にして見出す事が出来、本当にほっと致しました。

32年大学卒の湊さんのフルート伴奏で校歌を全員で合唱して始まった会、専門学校卒の諸先輩の精力的な人生を、懐かしい母校のアルバムを見乍ら伺いました。大半の方とは学園で共に過ごした事もないのに、あの方も、この方も、どこかで一度はお目に掛かっているような気がしてならなかった。これは下田歌子先生の教えが底力となって結ばれている同窓生だからでしょう。

"良妻賢母" ― 今では死語に近い懐かしい響きのある言葉、私は卒業後一年間花嫁修業をして結婚、子供にも恵まれ専業主婦として、家庭を守っていた処、39歳の時突然未亡人になって仕舞いました。種々のセレモニーを済ませた後、住民票の世帯主の欄に記された自分の名前に身が引き締まりました。幸い雇用状況の良い時代でしたので経験のない者でも雇ってくれたお陰で、当時14歳と9歳だった娘達がそれぞれ結婚して独立するまでの日々、季節の移ろい等気付く暇もなく、二足のわらじを履いて必死で働きました。親の役割を果たしたとたん健康を害した為、定年を前に退職しました。

一年半の間とても心細いひとり暮らしを経験した後、玄関、風呂場だけ共有の家で長女一家と暮らすようになりました。現在は孫達の話声や生活の音を聞き乍ら、有り余る時間を好きな手芸等で過ごせる幸せを満喫しています。季節を感じ乍ら歩く1時間のウォーキングと娘の家族と同居して得る安心感からでしょうか、順々に健康を取り戻しています。孫達の爲、自分の爲にお洒落に心掛けて、素敵なおばあちゃんになりたいです。


メールより

昭和45年短大被服卒 大田英美子 (東京より参加)

28日の茶話会に参加させて頂き有り難うございます。豊かな自然のしっとりとしたなか、大先輩の方々の、貴重なお話をゆっくり伺い、至福のひと時を共有でき、ああ、実践でよかったと思いました。ささやかな会費でしたが、出席者全員の自分史を何冊も読ませていただいたようで、いまは、読後の幸福感に浸っております。



昭和34年大学食物卒 小糸桂津子

野田・流山地区の茶話会が6月28日500円の会費で野田の報恩寺というお寺で初めて開かれました。出席者40数名会場はいっぱいでした。ここでこの会を企画された幹事さんそして歓談の場を提供下された大先輩でいらっしゃる報恩寺の御奥様にあらためてお礼申し上げます。さて、出席された同窓の皆様実践時代にもどりお互いになつかしさいっぱいの一時ではありませんでしたか私事で恐縮ですがいくつかの思い出を記させていただきたいと思います。

  • 竹内様の向田先生の懐古談を伺ってちょうどこの3月に家政科会のお誘いで三越劇場へ先生の娘時代の物語観に行った時の事を
  • 戸辺様がご持参下さった写真の中の校門前の「ソテツ」のなつかしかった事を
  • 有原先生 (倫理学?) のお話を伺い先生の別のやさしい一面を知った事

野田・流山地区にこれ程多くの同窓生がいらっしゃった事それも今回は50才以上の方にお声をかけられたとの事で等々皆様の自己紹介を聞きながらなつかしく幸せな気分になる事が出来ました。「同窓」とはいいものですね。和気あいあいの内に時もすぎ記念写真をとりキッコーマンの御用蔵をみ散会しました。

遅れましたが東京の実践桜会本部そして千葉支部から遠い所をこの会に出席下され、同窓会の現況や支部発会時の様子を伺う事も出来ました。有難うございましたお礼申し上げます。最後に会員皆様のご健勝とご多幸をお祈り申し上げます。



昭和22年家政科専門卒 渡辺涼子

那与竹の会報にいつも千葉の名が掲載されておりませでしたが、最近号に千葉の出家様のお名前が掲載されて居りなつかしく嬉しく存じ上げておりましたところ、先日六月二八日、野田の報恩寺に於て、東葛地区のお集まりに参加させて戴き、支部長様始幹部の皆様方の御努力に依り、健全な支部が立ち上っておりました事を知り、感無量でございました。

私如き、県北のチベットに住み付き、そのまま歳を重ね、唯々平凡な日々を送って参りました者にとりまして、先日の皆様方の御活躍の御様子を拝聴致し、大変な刺激となりました。今後は前向きに、晩年を出来得る限り健やかに楽しく生きてゆきたいと思っております。今後ともよろしく御指導の程お願い申し上げます。



昭和19年専門家政科卒 池田幸子

私が実践女子専門学校を繰り上げ卒業したのは昭和19年9月でした。私共の同級会が「とくみ会」として2年に一度各地にいる人が一泊旅行として企画開催しており北海道あり九州あり日本各地に集合して大変楽しみな会でした。

ただ私は昭和38年から、ひょんな事からタイプなどうったこともさわったこともないのにタイプ印刷の経営に携わる事になり仲仲参加できませんでした。

5月が「とくみ会」の開催月になり、その時期は私共にとっては決算月で一年で一番忙しい月でした。友達関係的に接しているタイピストの人達が優秀で口こみで広がり、「おたくの事務所は原稿の間違いもなおしてくれるそうですね」と他の得意先を紹介してくれました。

ある日、元華族で戦中の朝日新聞論説委員だった方から「○○教育センターですが、ある方から紹介されましたのでお願いしたいので来てほしい」と依頼があり、原稿をとりに伺いました。これから毎週出しますのでよろしく、と原稿をいただいて来ました。タイピストの人からいただいた原稿に間違っているところがありますが直してよろしいでしょうかといわれ、新規の依頼だから一応電話をして返事をしますからと教育センターに電話をしました。「原稿は真正なものです。直すなどとはもってのほか」と叱られ、深くおわびしました。その後次ぎの原稿をとりに伺った時「この間の原稿は私の間違いがあった。すまなかった。」と謝罪されました。私はいいタイピストに恵まれて幸せとつくずく思いました。

昭和59年終了まで男の様な生活を送り、休養は正月と八月の夏休みだけでしたが、今思えば充実した二十一年だったと思っています。仕事から解放され実践時代の親友と海外旅行をしたり、しばらくぶりで「とくみ会」に出て三十数年ぶりに会うなつかしい顔に学生時代を思い出し話がはずみました。そして二十年近くなった七十七才を迎た年京都での「とくみ会」で最後にして後はそれぞれが小クラス会でもということになり何かさびしいと思っていた時、東さん、芝田さんのご尽力で先日の千葉支部というあつまりが催され、新しい年代の違った方々とお会いでき大変新鮮でした。

実践の教育を受けた人達がこんなに身近におられたのがおどろきでした。余り大勢の方とお話ができませんでしたが、又お目にかかる機会を作っていただき、いろいろのお話をお聞きしたいです。

大変ありがとうございました。

(写真/東 由美)